今回から少し趣向を変えて、古都奈良に的を絞った歴史年表に沿って、ある特定の人物の奈良県内のゆかりの地を巡って行こうと思います。
今回は、卑弥呼ゆかりの地を巡ってみようと思います。
歴史年表
239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられる
卑弥呼 ? 〜 247?
古代中国の歴史家陳寿の歴史書「三国志」のうち「魏書」の「東夷倭人条(とういわじんのじょう)」通称「魏志倭人伝」に、3世紀前半卑弥呼という女王が治める邪馬台国という王国があったと記されている。
卑弥呼はシャーマン的な女王として統治し、夫を持たず、弟が補佐役を務めていた。
ほとんど人前に姿を現すことはなく、ただ一人飲食の世話をする男子だけが、館への出入りを許されていたという。
239年、魏に難升米(なんしょうまい)、都市牛利(としごり)という2人の男を使者として送り、男の奴隷4人、女の奴隷6人と布を貢物として献上した際、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を授けられたと記録されている。
247年頃、狗奴国(くなこく)との争いで、60〜70歳ぐらいで亡くなったと伝えられている。
*狗奴国
邪馬台国と争っていたという倭人の国。
「魏志倭人伝」では、邪馬台国の南にあったと記されている。
卑弥呼の死後
卑弥呼の死後、男の王を立てたが国中が服従しなかったので、卑弥呼の同族で13歳の壱与(いよ)を女王にしたところ国がおさまったとう。
しかしこれ以後、中国への使者が途絶えたため、こののちの日本に関する文献は残っていないという。
ゆかりの地 1
纏向遺跡 桜井市箸中
JR巻向駅付近を中心とする東西約2km、南北約1.5kmの範囲にわたって広がる大遺跡。
邪馬台国の有力候補地と考えられている。
遺跡内には、纏向石塚古墳、纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳、東田大塚(ひがいだおおつか)古墳、ホケノ山古墳そして卑弥呼の墓説のある箸墓古墳(以上すべて前方後円墳)がある。
邪馬台国はどこにあったのか?
邪馬台国は一体どこにあったのか。
なぜ、場所を特定できないのか。
邪馬台国についての記述は、「魏志倭人伝」の一説にしかなく、そこに書かれている邪馬台国への行程の説明があいまいであるために、いまだに、はっきりした位置が特定されていない。
「魏志倭人伝」には、朝鮮半島から玄界灘に向けての行程、さらには、北部九州上陸後邪馬台国に至るまでの行程が記されている。
そこには、
「北部九州から南に水行(船に乗って)10日、さらに陸行(徒歩で)1月かかる」とある。
ところが、この記述通りの方角に記述通りの距離を進むと、太平洋上に出てしまい、沖縄から台湾あたりにあったことになってしまうというのである。
畿内説と九州説
そこで、「記述に誤りがあるのではないか」という、考えが生まれた。
方角の記述が誤りで、「南」ではなく「東」に同じ距離を進むと大和にたどり着くと考える「畿内説」と、距離の表記に誤りがあると考える「九州説」の2つの説が生まれたのである。
まだまだある「邪馬台国」候補地
近畿九州以外にも、「邪馬台国]の候補地は日本全国にある。
一例をあげると、
新潟県栃尾市
福井県鯖江市
愛媛県川之江
徳島県初根 などがある。
また意外なところでは、エジプト、フィリピンといった外国の名前まで
挙げられているという。
「邪馬台国は大和で決まり!」...なのか?
纏向遺跡が邪馬台国の最有力候補地と考えられる根拠として、
2009(平成21)年2月27日(金)付の奈良新聞の特集記事、
「大和政権と古墳文化T 卑弥呼の里 纏向遺跡」には、
次のような点が挙げられている。
・3世紀初めに出現した大集落遺跡である
・初期の前方後円墳が集中している
・出土した土器のうち他地域から運び込まれた土器が約3割を占める
・正方位の特殊な建物跡(祭殿跡)が見つかっている
さらに、
染織に使ったとみられる大量のベニバナ花粉が検出された
(ベニバナは国内で自生しない外来種で、外国から運ばれてきたと考えられる。つまり、纏向遺跡一帯は、3世紀ごろすでに国際交流が行われていた先進都市だった可能性が高いと考えられる。)
しかし、
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の墓は、径歩(直径)約150mの円墳とされているが、箸墓古墳は前方後円墳である。
卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡は、中国では1面も出土していない。
三角縁神獣鏡は、近畿を中心に400面以上出土している。
三角縁神獣鏡には、景初3年(239年)の年号以外に景初4年という中国には実在しない年号のものがある。
〜 三角縁神獣鏡は、日本製ではないかという説もある。
等の矛盾点を指摘する意見もあり、「邪馬台国=近畿」とする決定的な証拠は今なお見つかっていない。
ゆかりの地 2
箸墓古墳(はしはかこふん) [大市墓(おおいちぼ)]
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説のある全長約280mの大型前方後円墳。
現在は、宮内庁により、第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓に治定され管理されている。
アクセス JR奈良駅から桜井線で巻向駅下車、徒歩約20分
箸 墓 古 墳
倭迹迹日百襲姫命とは?
第7代孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の叔母にあたる。
霊感が強く、崇神天皇を神がかりの力で助けたと言われ、姫を卑弥呼と同一人物と考える説もある。
大物主神と結婚するが、大物主は夜だけ一緒にいて、朝になると帰ってしまう。
ある日、姫が「明るいところで姿が見たい」と頼むと、大物主は、「私の姿を見ても決して驚かないように」と答えた。
しかし、翌朝、大物主の正体が蛇であると知った姫は、思わず悲鳴をあげてしまう。
怒った大物主は、山へ去ってしまい、残された姫は、嘆き悲しみ箸で陰部を突き刺して死んでしまった。
それ故、姫の墓は「箸墓」と呼ばれるようになったという。
新たな発見!
2009年5月29日、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造時期が、240〜260年と推定され卑弥呼の死亡時期と一致することがわかった。
もちろん、さらなる年代の絞り込みが必要と、慎重論を唱える研究者もおり、今後の調査が期待される。
ゆかりの地 3
黒塚古墳(くろつかこふん)
4世紀初頭〜前半の築造と考えられる全長約130mの前方後円墳。
1997(平成9)年に、大和古墳群学術調査委員会を中心とする発掘調査で、後円部中央から竪穴式石室が検出され、また、画文帯神獣鏡1面と卑弥呼の鏡と言われる33面の三角縁神獣鏡が出土した。
アクセス JR奈良駅から桜井線で柳本駅下車、徒歩約5分
黒 塚 古 墳
天理市立黒塚古墳展示館
黒塚古墳のすぐそばにある展示館。
黒塚古墳の石室の原寸大が復元され展示されている。
2階には、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡のレプリカが展示されている。
(この展示館は、ドラマ「鹿男あをによし」をご覧になった方なら、校長先生役の児玉清さんが鏡を隠した所と言えば、おわかりいただけるのではないでしょうか。)
月曜、祝祭日、12月28日〜1月4日 休み
(月曜日が祝祭日の時、月曜、火曜休み)
天理市立黒塚古墳展示館
三角縁神獣鏡とは?
縁の部分の断面が鋭く尖った形をしていて、かつ背面に神獣の模様の刻まれた鏡。
画文帯神獣鏡とは?
神仏や竜、虎などの霊獣を半肉彫りで描き出した模様をもつ鏡。
三角縁神獣鏡のように縁が尖らず平ら。
以上で今日の報告は終了です。
私は、7月23日にも書きましたが、奈良検定1級ですが、正直に言いますと古墳は苦手分野です。
しかし、今日は自分なりにリサーチしたことを頑張って書かせていただきました。
ここに書いたことは、すべて一般的にいわれていることばかりなので、中には読んでいて物足りなさを感じられた方もいらっしゃると思います。
ただ、奈良県内の卑弥呼ゆかりの地を知っていただき、奈良の名所に少しでも関心を持っていただくきっかけになればと思っております。