2009年07月31日

卑弥呼ゆかりの地

こんにちは、チヨです。

今回から少し趣向を変えて、古都奈良に的を絞った歴史年表に沿って、ある特定の人物の奈良県内のゆかりの地を巡って行こうと思います。

今回は、卑弥呼ゆかりの地を巡ってみようと思います。


 歴史年表

239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられる


 卑弥呼  ? 〜 247?

古代中国の歴史家陳寿の歴史書「三国志」のうち「魏書」の「東夷倭人条(とういわじんのじょう)」通称「魏志倭人伝」に、3世紀前半卑弥呼という女王が治める邪馬台国という王国があったと記されている。
卑弥呼はシャーマン的な女王として統治し、夫を持たず、弟が補佐役を務めていた。
ほとんど人前に姿を現すことはなく、ただ一人飲食の世話をする男子だけが、館への出入りを許されていたという。
239年、魏に難升米(なんしょうまい)、都市牛利(としごり)という2人の男を使者として送り、男の奴隷4人、女の奴隷6人と布を貢物として献上した際、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を授けられたと記録されている。
247年頃、狗奴国(くなこく)との争いで、60〜70歳ぐらいで亡くなったと伝えられている。


  *狗奴国 
    邪馬台国と争っていたという倭人の国。
    「魏志倭人伝」では、邪馬台国の南にあったと記されている。


 卑弥呼の死後

卑弥呼の死後、男の王を立てたが国中が服従しなかったので、卑弥呼の同族で13歳の壱与(いよ)を女王にしたところ国がおさまったとう。
しかしこれ以後、中国への使者が途絶えたため、こののちの日本に関する文献は残っていないという。


 ゆかりの地 1

纏向遺跡  桜井市箸中

JR巻向駅付近を中心とする東西約2km、南北約1.5kmの範囲にわたって広がる大遺跡。
邪馬台国の有力候補地と考えられている。
遺跡内には、纏向石塚古墳、纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳、東田大塚(ひがいだおおつか)古墳、ホケノ山古墳そして卑弥呼の墓説のある箸墓古墳(以上すべて前方後円墳)がある。


 邪馬台国はどこにあったのか?

邪馬台国は一体どこにあったのか。
なぜ、場所を特定できないのか。

邪馬台国についての記述は、「魏志倭人伝」の一説にしかなく、そこに書かれている邪馬台国への行程の説明があいまいであるために、いまだに、はっきりした位置が特定されていない。

「魏志倭人伝」には、朝鮮半島から玄界灘に向けての行程、さらには、北部九州上陸後邪馬台国に至るまでの行程が記されている。

そこには、
「北部九州から南に水行(船に乗って)10日、さらに陸行(徒歩で)1月かかる」とある。

ところが、この記述通りの方角に記述通りの距離を進むと、太平洋上に出てしまい、沖縄から台湾あたりにあったことになってしまうというのである。


 畿内説と九州説

そこで、「記述に誤りがあるのではないか」という、考えが生まれた。
方角の記述が誤りで、「南」ではなく「東」に同じ距離を進むと大和にたどり着くと考える「畿内説」と、距離の表記に誤りがあると考える「九州説」の2つの説が生まれたのである。


 まだまだある「邪馬台国」候補地

近畿九州以外にも、「邪馬台国]の候補地は日本全国にある。
一例をあげると、
新潟県栃尾市
福井県鯖江市
愛媛県川之江
徳島県初根    などがある。
また意外なところでは、エジプト、フィリピンといった外国の名前まで
挙げられているという。


 「邪馬台国は大和で決まり!」...なのか?

纏向遺跡が邪馬台国の最有力候補地と考えられる根拠として、
2009(平成21)年2月27日(金)付の奈良新聞の特集記事、
「大和政権と古墳文化T 卑弥呼の里 纏向遺跡」には、
次のような点が挙げられている。

・3世紀初めに出現した大集落遺跡である
・初期の前方後円墳が集中している
・出土した土器のうち他地域から運び込まれた土器が約3割を占める
・正方位の特殊な建物跡(祭殿跡)が見つかっている

さらに、
染織に使ったとみられる大量のベニバナ花粉が検出された


(ベニバナは国内で自生しない外来種で、外国から運ばれてきたと考えられる。つまり、纏向遺跡一帯は、3世紀ごろすでに国際交流が行われていた先進都市だった可能性が高いと考えられる。)


しかし、
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の墓は、径歩(直径)約150mの円墳とされているが、箸墓古墳は前方後円墳である。

卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡は、中国では1面も出土していない。

三角縁神獣鏡は、近畿を中心に400面以上出土している。

三角縁神獣鏡には、景初3年(239年)の年号以外に景初4年という中国には実在しない年号のものがある。

     〜 三角縁神獣鏡は、日本製ではないかという説もある。


等の矛盾点を指摘する意見もあり、「邪馬台国=近畿」とする決定的な証拠は今なお見つかっていない。



 ゆかりの地 2

 箸墓古墳(はしはかこふん) [大市墓(おおいちぼ)]

邪馬台国の女王卑弥呼の墓説のある全長約280mの大型前方後円墳。
現在は、宮内庁により、第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓に治定され管理されている。


アクセス JR奈良駅から桜井線で巻向駅下車、徒歩約20分





箸墓古墳.

   箸 墓 古 墳 


 倭迹迹日百襲姫命とは?

第7代孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の叔母にあたる。
霊感が強く、崇神天皇を神がかりの力で助けたと言われ、姫を卑弥呼と同一人物と考える説もある。
大物主神と結婚するが、大物主は夜だけ一緒にいて、朝になると帰ってしまう。
ある日、姫が「明るいところで姿が見たい」と頼むと、大物主は、「私の姿を見ても決して驚かないように」と答えた。
しかし、翌朝、大物主の正体が蛇であると知った姫は、思わず悲鳴をあげてしまう。
怒った大物主は、山へ去ってしまい、残された姫は、嘆き悲しみ箸で陰部を突き刺して死んでしまった。
それ故、姫の墓は「箸墓」と呼ばれるようになったという。


 新たな発見!

2009年5月29日、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造時期が、240〜260年と推定され卑弥呼の死亡時期と一致することがわかった。
もちろん、さらなる年代の絞り込みが必要と、慎重論を唱える研究者もおり、今後の調査が期待される。


 ゆかりの地 3

 黒塚古墳(くろつかこふん)

4世紀初頭〜前半の築造と考えられる全長約130mの前方後円墳。
1997(平成9)年に、大和古墳群学術調査委員会を中心とする発掘調査で、後円部中央から竪穴式石室が検出され、また、画文帯神獣鏡1面と卑弥呼の鏡と言われる33面の三角縁神獣鏡が出土した。


アクセス JR奈良駅から桜井線で柳本駅下車、徒歩約5分





黒塚古墳

 黒 塚 古 墳




天理市立黒塚古墳展示館

黒塚古墳のすぐそばにある展示館。
黒塚古墳の石室の原寸大が復元され展示されている。
2階には、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡のレプリカが展示されている。


(この展示館は、ドラマ「鹿男あをによし」をご覧になった方なら、校長先生役の児玉清さんが鏡を隠した所と言えば、おわかりいただけるのではないでしょうか。)


  月曜、祝祭日、12月28日〜1月4日  休み
    (月曜日が祝祭日の時、月曜、火曜休み)


黒塚古墳展示館.

  天理市立黒塚古墳展示館


 

 三角縁神獣鏡とは?

縁の部分の断面が鋭く尖った形をしていて、かつ背面に神獣の模様の刻まれた鏡。


 画文帯神獣鏡とは?

神仏や竜、虎などの霊獣を半肉彫りで描き出した模様をもつ鏡。
三角縁神獣鏡のように縁が尖らず平ら。


 以上で今日の報告は終了です。


私は、7月23日にも書きましたが、奈良検定1級ですが、正直に言いますと古墳は苦手分野です。
しかし、今日は自分なりにリサーチしたことを頑張って書かせていただきました。

ここに書いたことは、すべて一般的にいわれていることばかりなので、中には読んでいて物足りなさを感じられた方もいらっしゃると思います。

ただ、奈良県内の卑弥呼ゆかりの地を知っていただき、奈良の名所に少しでも関心を持っていただくきっかけになればと思っております。




ラベル:卑弥呼 古墳
posted by チヨ at 19:29| 奈良 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月27日

二上山の麓へ 2

こんにちは、チヨです。

まず、最初にお詫びと訂正です。

前回、傘堂は當麻寺から歩いて5分くらいと書いてしまいましたが、
10分くらいの誤りです。申し訳ございませんでした。

さて、今回は傘堂と石光寺について報告します。


當麻寺の北門から出て10分ほど歩いた所に傘堂はあります。






 傘 堂(かさどう)

1本の太い柱で屋根を支える珍しい形をした堂。
郡山藩主本田正勝の菩提を弔うために、家臣の吉弘統家(よしひろのりいえ)が、1674(延宝2)年に建立したと言われる。
建築を担当したのは、日光東照宮の眠り猫で知られる、左甚五郎と言われている。
昔は、柱の上に阿弥陀仏が安置されていたが、現在は石光寺に保管されている。
また、鐘も吊るされていたが、こちらの方は現在、明円寺(葛城市新在家)の本堂前にある。
ここを3回参ると、ぽっくり往生できるとか、亡くなる時に雨が降らず
まわりの人たちに迷惑をかけないなどと言われている。


傘堂.JPG

  傘 堂



傘堂までの道は、坂道がやや急で結構きついですが、ここを登りきりさらに傘堂を通り過ぎて少し行くと、










二上山.JPG

  二 上 山


二上山を一望できます。



  二 上 山 (にじょうさん)

「ふたかみやま」とも呼ばれる。
雄岳517m、雌岳474mの二峰からなる二上火山群の主峰。
雄岳山頂には、大津皇子の墓があり、また、葛城二上神社も鎮座する。
雌岳山頂には、大きな時計台がある。



 大津皇子(おおつのみこ) 663 〜 686

天武天皇の第3皇子。母は、大田皇女(天智天皇の皇女)。
人望も厚く天武天皇の後継者の一人として期待されていたが、天武天皇の死後、謀反の疑いをかけられ、捕らえられ、殺されてしまった。
この事件は、自分の息子である草壁皇子をどうしても天皇にしたかった持統天皇の策略ではないかと言われている。



傘堂から歩いて10分ほど行くと、石光寺があります。





  石 光 寺 (せっこうじ)

天智天皇の時代(670年頃)、光を放つ三大石があるので掘り起こしたところ、弥勒三尊の石像が現れた。
勅願により、役小角(えんのおづぬ)が堂宇を建立し、弥勒菩薩を本尊として祀り、「石光寺」と号したのが始まりとされる。
さらに、約100年後の聖武天皇の時代(750年頃)、中将姫が當麻寺本堂本尊、當麻曼荼羅を織った時、この寺の井戸で蓮糸を洗って五色に染め、桜の木にかけて乾かしたと言われており、この桜の木を「糸かけ桜」、井戸を「染井(そめのい)」、そして寺を別名「染寺(そめでら)」という。
また、二上山頂までを「染野(しめ)」という。


中将姫ゆかりの染井.

  中将姫像の立つ染井


 役 小 角 (えんのおづぬ) ? 〜 ?

奈良時代に実在したと言われる行者。修験道の開祖。
現在の御所市茅原が生誕の地と言われている。
金剛山、葛城山で修業をして呪術を身に付けたといわれ、鬼を使い、空を飛んだなどの伝説がある。
また、吉野の大峰山で蔵王権現を感得したとも言われている。
「続日本紀」によると、699(文武3)年、妖術により人を惑わすとの理由で、伊豆国に流罪になったとされる。



 実在した?光る石仏

1991(平成3)年の春、
弥勒堂の建て替えに伴う発掘調査が行われたところ、
白鳳時代の瓦とともに、弥勒石仏の頭部と台座部分が出土し、
「これこそが、光る石伝説の石仏だ」と、
当時大騒ぎになったという。
現在、この石仏は、弥勒堂に安置されているが、
開扉されるのは、
1月元日〜末と、4月下旬〜5月下旬のみとのこと。


石光寺 弥勒堂.

弥勒石仏を安置する弥勒堂


弥勒堂には、このほか
本尊、弥勒如来坐像(秘仏)や中将姫山居尊像などが安置されている。




 阿弥陀堂(常行堂)

弥勒堂の隣に位置する堂。
本尊、阿弥陀如来坐像ほか
地蔵菩薩立像、中将姫蓮糸刺繍来迎三尊立像、
元祖法然上人坐像、中興聖阿上人坐像を安置




境内には、与謝野鉄幹、晶子の文学碑がある。

残念ながらこちらは写真がないので、
刻まれている歌を紹介します。



時雨ふる日はおもひいづ
当麻の里の染寺に
ひともと枯れし柳の木
京の禁裡の広前に
ぬれて踏みける銀杏の葉

            与謝野鉄幹



初春や当麻の寺へ文かけば
 奈良の都に住むここちする

            与謝野晶子



さらに石光寺は、
関西花の寺第二十番札所であり、
特にボタンの花で有名で、
4月中旬〜下旬は、春ボタン、
11月下旬〜1月末までは寒ボタンが見ごろ。

寒ボタンの霜除けのために藁帽子を被せられた姿は、かわいらしくて人気がある。

ボタン以外にも
12月中旬〜3月下旬の寒咲きあやめ
2月下旬のしだれ桜
3月中旬の寒ぼけ、きぶし
3月下旬のラッパ水仙
5月上旬〜中旬のシャクヤク    
               等々
四季折々の花を楽しむことができる。

石光寺に咲くシャクヤク.

境内に咲くシャクヤク (2009年5月10日撮影)


また次の写真


石光寺サルスベリの木



門に向って右側に見えるのはサルスベリの木。
花期は7月〜9月頃。
境内の休憩所には、美しく咲いたサルスベリの花の写真が掛けられている。


拝観料は、400円です。
帰りの最寄り駅は、近鉄二上神社口駅になります。
歩いて20分くらいです。


以上、今回の報告を終わります。
posted by チヨ at 18:47| 奈良 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

二上山の麓へ 1

こんにちは、チヨです。

今回と次回は、5月10日に訪れた葛城市にある中将姫ゆかりの寺、當麻寺と石光寺について2回に分けて報告したいと思います。

まず今回は當麻寺と最寄駅の当麻寺駅近くにある、葛城市相撲館けはや座について報告します。


 當麻寺へのアクセス

近鉄奈良駅から奈良線大和西大寺駅下車
橿原線に乗り換えて橿原神宮前駅下車
南大阪線に乗り換え當麻寺駅下車、徒歩約15分

当麻寺駅から當麻寺に向かって5分ほど歩くと、右手に葛城市相撲館けはや座があります。


 


 葛城市相撲館けはや座

相撲の開祖と言われる當麻蹴速がこの地の出身であることにちなんで建てられた、相撲の資料館。
江戸時代の番付表、歴代横綱の手形、化粧まわしなどの資料が展示されるユニークな資料館で、1階には大相撲本場所と同サイズの土俵も設置されている。

 入館料300円 火、水休み
        (祝日の場合営業。水曜が祝日の時、翌日休み)


相撲館の向かって左隣りには、當麻蹴速の墓と言われる五輪塔、當麻蹴速之塚がある。


當麻蹴速の五輪塔.JPG  當麻蹴速之塚

       


 相撲の起源について

「日本書紀」によると、垂仁天皇の時代に當麻蹴速(たいまのけはや)という力自慢の男がいた。
この男のうわさを耳にした天皇は、出雲に住むやはり力自慢で有名な野見宿禰(のみのすくね)を都に呼び2人を戦わせてみることにした。
戦いは、野見宿禰が、當麻蹴速のあばら骨と腰骨を蹴り砕いて勝利。
(当時の相撲は、殴ったり蹴ったり今で言う格闘技のようなものだったと言われている)
その結果、蹴速は領地を奪われ、宿禰はそのまま都にとどまり天皇に仕えることになった。
これが相撲の起源で、その時の土俵が現在の桜井市にある相撲神社で相撲発祥の地とされている。
また、蹴速と宿禰の2人は相撲の開祖とされている。


相撲神社.JPG  相撲発祥の地、相撲神社(桜井市穴師)



 その後の野見宿禰 〜 埴輪の起こり

この当時、皇族が亡くなると従者を殉死させるのがならわしだったが、
垂仁天皇の弟の倭彦命(やまとのひこのみこと)が亡くなった時、生き埋めにされた者たちが死に切れず苦しみ泣く様を目の当たりにして哀れに思った天皇は、殉死を禁止した。
その後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなると、天皇は周囲の者たちに、殉死にかわる良い方法はないかと尋ねた。
すると宿禰が、かわりに人形を使ってはどうかと提案し、土で作った人形(埴輪)を献上した。これが埴輪の起こりで、この案を大変気に入られた天皇は、宿禰に土師(はじ)の姓を与えた。
以後土師氏が、埴輪作りや皇族の葬儀を担当するようになったと言われている。
ただし、考古学的に見て、日葉酢媛命陵から出土した埴輪は日本最古のものではないらしい。


日葉酢媛命陵.JPG

埴輪起源説で知られる垂仁天皇皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵
                    (奈良市山陵町)




相撲館からさらに10分ほど歩くと當麻寺に到着です。
冒頭でも触れましたが、中将姫ゆかりのお寺です。



 中将姫(ちゅうじょうひめ) 747 〜 775

右大臣藤原豊成(藤原武智麻呂の長男)の娘。
幼いころに実の母を亡くした姫は、継母に育てられる。
美しくそのうえ和歌や管弦に優れた女性に成長した姫は、継母に激しく嫉妬され、いじめられ、命まで狙われるようになる。
浄土に憧れ、俗世間から逃れたいと考えた姫は、當麻寺へ入り、17歳で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょびくに)となる。
(当初當麻寺は、女人禁制で受け入れてもらえなかったが、一心に念仏を唱えるうちに許されたと言われる)
その後も熱心に仏行に励み、仏の助力を得て、一夜にして蓮糸で當麻曼荼羅を織り上げたという。
29歳の時に、二十五菩薩の来迎を受けて、極楽往生されたと伝えられている。



 當麻寺

612年(推古20)、聖徳太子の弟の麻呂子皇子(當麻皇子)が、河内国に万法蔵院を創建し、681年(天武10)その孫の當麻国見が現在地に移したと言われる。






  *當麻寺の主な建造物


 本堂(曼荼羅堂) − 国宝

本尊の當麻曼荼羅(国宝)は、中将姫が一夜にして蓮糸で織り上げたと言われているが、実際は絹の綴れ織り。
現在、原本は傷みが激しいため外されて非公開となっている。
かわりに厨子には文亀本と呼ばれる室町時代の写本(重要文化財)が掛けられている。
中将姫29歳像も置かれている。

 
當麻寺本堂.JPG  本堂(曼荼羅堂)


 金堂 − 重要文化財

創建当初は、本堂だった建物。
当初の建物は1180年(治承4)、平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ちの際の兵火により焼失。
現在のものは、鎌倉時代に再建されたもの。
本尊、弥勒仏坐像(国宝)は白鳳時代の作で、国内最古の塑像とされている。
四天王立像(重要文化財)は、多聞天像だけは鎌倉時代の補作で木造だが、他は、白鳳時代の乾漆造で法隆寺金堂の像に次いで古い像と言われている。


 講堂 − 重要文化財

金堂同様、創建当初のものは、南都焼き討ちの際の兵火で焼失し、鎌倉時代に再建された。
本尊、阿弥陀如来坐像は重要文化財。
その他、不動明王像、地蔵菩薩像(重文)、妙幢菩薩像(重文)、千手観音像(重文)、多聞天像と諸像が安置される。


 中之坊

中将姫が剃髪したと言われる塔頭。
書院と片桐石州が設計した茶室は重要文化財。
江戸時代に、後西(ごさい)天皇を迎えるために片桐石州が改修したと言われる池泉回遊式庭園は、国名勝、国史跡に指定されており、竹林院群芳園(吉野)、慈光院(大和郡山市小泉町)とともに、大和三名庭園の一つに数えられている。


當麻寺中之坊入り口.JPG  塔頭の中之坊


 東塔 − 国宝

中之坊の裏に建つ天平時代に建立されたという三重塔。
高さ約23m。


 西塔 − 国宝

天平時代末期から平安時代初期に建立されたと推測される三重塔。
高さ約25m.


 奥院

京都知恩院の奥院として創建された、塔頭寺院。
境内には、極楽浄土を表現した、浄土庭園がある。


 *拝観料
   
   境内自由
   本堂、金堂、講堂は、セットで500円
   中之坊  500円
   奥院   500円


最後に當麻寺の恒例行事、練供養会式について


 當麻寺練供養会式(當麻れんぞ)

毎年5月14日の中将姫の命日に行われる。
二十五菩薩に扮した人々が、西方浄土に模した本堂(曼荼羅堂)から人間界に見立てた娑婆堂に赴き、中将姫を蓮台にすくい上げて極楽浄土へ導く様を演じる宗教劇。
起源は、平安時代頃に遡ると言われる。
蓮台を手に中将姫を迎えに行く観音菩薩をスクイボトケ、合掌しながら続く勢至菩薩をオガミボトケと言う。
またこの両菩薩は体を左右にひねるようにして進む「お練り」という独特の動きを見せる。
  



當麻寺には駐車場(有料)があるので、車で行くことも可能ですが、練供養会式などの時は、混雑のおそれがあるので歩いて行った方が無難かも知れません。
また、相撲館から當麻寺までは一本道なのでわかりやすいですが、やや道が狭く、車も割と多いので行かれる時は、お気をつけて!

それでは今回の報告は終わります。
次回は、當麻寺の歩いて5分ほどのところにある傘堂と中将姫ゆかりの石光寺(せっこうじ)について報告します。



posted by チヨ at 18:52| 奈良 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月23日

喜光寺に行ってきました

こんにちは、チヨです。

今日は、7月19日に喜光寺に行ってきた時のことを書こうと思いますが、その前に自己紹介させていただきます。

私は奈良市出身。現在も奈良市在住です。
職業は、会社経営(始めたばかりの中小零細企業)
そして、奈良まほろばソムリエ検定奈良通1級です。

ご存じでない方のために説明させていただきますと、奈良まほろばソムリエ検定とは、2007年にスタートした奈良商工会議所が主催するご当地検定で、ランクは、奈良通2級、奈良通1級、まほろばソムリエの3ランクです。

実は、私は元々はあまりというか全然お寺とか神社には興味がありませんでした。だから初年度は検定試験を受験していません。
去年初めてなんとなく2級を受けてみたのですが、勉強してみると、これが非常に奥深くてすっかりはまってしまいました。

当初は、「2級受かればいいや」って感じでしたが、今年1級を受けて合格。もちろん来年は最難関のまほろばソムリエ合格目指しますよ。

そんなわけで、私自身もまだまだ奈良についてさらに詳しく知るために勉強しなければならない立場なのですが、こうしてブログを書くことも勉強の一つと思い書かせていただいています。

私は歴史学者でもなければ、考古学者でもありません。
大学も立命館大学経済学部卒なので、畑違いの勉強をしていました。
だから、玄人受けするような専門的なことを書くことはできません。

その代わり、できるだけわかりやすい言葉で、老若男女さまざまな方に
気楽に読んでいただけるブログを書いていきたいと思っています。

それから、なぜ古都奈良なのにテンプレートが鹿じゃなくてネコなんだと言われるかも知れませんが、理由は単純、私がネコ好きだからです。ご了承ください。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、本題に戻ります。

まず、なぜ19日に喜光寺に行ったかと言いますと、
今、境内の蓮の花が見ごろ。
18日と19日の2日間、弁天堂に安置されている宇賀親王ご神体が特別公開される。
という、2つの情報を入手したからです。


 喜光寺(きこうじ)

721年に行基が創建したと言われる。
かつては、菅原の地にあることから菅原寺と呼ばれていたが、聖武天皇が参詣された際に、本尊の阿弥陀如来像が不思議な光を放ち、それをご覧になった聖武天皇が大変喜ばれたことにちなんで喜光寺と改名されたと言う。
また、行基が東大寺大仏殿造立にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから「試みの大仏殿」とも呼ばれている。
ちなみに現在の本堂は、室町時代に再建されたもの。
本堂安置の本尊阿弥陀如来坐像は国の重要文化財。
その両脇には、脇侍の観音菩薩坐像(本尊向かって右)、勢至菩薩坐像(本尊向かって左)が、さらに観音菩薩像の右側には、行基菩薩座像が置かれている。


 喜光寺へのアクセス

近鉄奈良駅から奈良交通バス、11番のりばより
赤膚山行きまたは学研北生駒駅行き乗車
阪奈菅原下車、徒歩5分





聖武天皇(しょうむてんのう) 701 〜 756

文武天皇と藤原宮子(藤原不比等の娘)の息子の首皇子(おびとのみこ)。
皇后は光明皇后(藤原不比等の娘の光明子)。
幼くして皇太子となるが、父である文武天皇が若くして亡くなったため、彼が成人するまでの間、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇の二人の女帝が中継ぎとして即位したのち、譲位されてようやく第45代聖武天皇として即位した。
天変地異が相次ぐ中、厚く仏教を信仰し、行基らの手をかりて東大寺大仏殿を完成させた。
また、大陸の文化を積極的に取り入れ、彼の時代には天平文化が栄えた。
その一方で、5年間に5回都を遷し、頻繁に遷都を行ったことでも知られる。
748年に阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位すると出家した。


 行基(ぎょうき) 668 〜 749

奈良時代の多くの僧侶が学問や国家鎮護に熱心だったのに対し、行基は各地を歩き回って布教活動を行い、人々の救済にあたった。
そのため一時朝廷から弾圧を受けたが、のちに認められ(特に聖武天皇に気に入られた)、大仏造立の際には勧進(資金集めのこと)を行い、その功績を認められて、日本初の大僧正になった。
しかし、大仏造立が遅れたため大仏の完成を見ることなく、喜光寺で亡くなった。
遺体は、彼の遺志により弟子たちによって、生駒の竹林寺に埋葬された。


さて、喜光寺とそのゆかりの人物について簡単な説明が済んだところで、当日の様子をご報告しましょう。

まず、入り口で拝観料300円を払って中へ入るとカメラ片手の参拝者の方が結構いらっしゃいました。一眼レフカメラで本格的に撮っている方も多かったですよ。
当日は雨が降ったり止んだりややこしい天気でしたが、境内は朝早くから賑わってました。
というのも、蓮の花は朝早く開いて昼ごろには閉じてしまうので、午前中できれば午前10時ごろまでに行かないといい写真が撮れないのだそうです。

私も蓮の写真何枚か撮ってきましたが、さすが行基のゆかりのお寺ですね。行基蓮なんて名前の蓮がありました。

その名も行基蓮

写真を撮った後は、本堂へ。
本尊の阿弥陀如来坐像、両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像、すべてやさしいお顔をされていてすごく癒されるって感じです。
癒し系の仏像が好きな方にはお勧めかも知れませんね。

本堂の写真を撮りたかったのですが、当日はまわりにテントが張ってあってどうしてもそれが写り込んでしまうんですね。仕方ないので撮影は諦めました。

後で知ったのですが、その翌日、20日の日に現在工事中の南大門の上棟式があったとかで、あのテントはそのためのものだったようです。

次に、特別公開のご神体を見るために弁天堂へ。
ここは、蓮池の上に建つお堂で、橋を渡って傍まで行くと...
中央にご神体、向かって右に大日如来像、左に愛染明王像が置かれていました。

喜光寺弁天堂

さらに、境内には、石仏群や石川郎女の万葉歌碑もありました。


喜光寺石仏群石川郎女の万葉歌碑

結構見所がたくさんあって、あっという間に1時間くらい過ぎてしまいました。

私は、この3カ月奈良県内のお寺や神社を見てまわってきましたが、
実際訪ねてみると、いろいろ拝見させていただけて、本当に勉強になりました。

これからも、あちこち訪ねてレポートさせていただきたいと思います。もちろん、過去3カ月間に訪ねた名所についても順次ご報告します。

このブログを読んでくださる方のご期待にそえるように頑張りますので、よろしくお願いします。
ラベル:奈良市
posted by チヨ at 19:24| 奈良 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

はじめまして

はじめまして。この度ブログを始めることにしました。
私は7月1日から、会社を始めました。
観光情報関連の会社です。
5月から奈良県内の名所をデジカメ片手にまわっています。
でも、現在社員は社長の私一人。一人でまわるには限界があるというのが現実です。
でも、3か月でメモリカードがいっぱいになるくらい写真が撮れましたし、実際あちこち訪ねてみて私自身新たな発見があり、いい勉強になりました。
そこで、私が訪ねた奈良の名所を私の感想もまじえながらご紹介できたらと、ブログを書くことにしました。
老若男女いろいろな方に気楽に読んでいただけて、奈良の名所を知っていただけるようなブログを書いていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
ラベル:奈良
posted by チヨ at 16:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする