2009年08月26日

法隆寺 西院伽藍

こんにちは。

今回も聖徳太子のゆかりの地を巡ってみようと思います。

今回は、法隆寺です。
法隆寺は、見所が多いので2回に分けて書かせていただきます。


法隆寺

用明天皇(聖徳太子の父)が疫病(天然痘)にかかり、自らの病気平癒を祈願するために、薬師像を祀る寺の建立を発願した。
しかし、それを果たすことなく間もなく天皇は崩御されたので、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成させたのが法隆寺である。

法隆寺は「日本書紀」に670(天智9)年落雷で焼失したを記されている。

この事実の是非をめぐって1880(明治20)年頃から「法隆寺再建非再建論争」が起こったが、1939(昭和14)年に、現在の西院伽藍の東南にある若草伽藍跡地の発掘調査が行われ、塔と金堂が建てに直列する四天王寺式伽藍跡が確認され、焼失した法隆寺の遺構であることが明らかになった。

現在の法隆寺は金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と八角円堂の夢殿を中心とする東院伽藍に分かれる。

1993(平成5)年法起寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本初の世界文化遺産に登録された。


 アクセス  近鉄奈良駅から奈良交通バス
       法隆寺前行きで1時間
       法隆寺前下車、徒歩約5分




最初に南大門を通り抜け、少し行くと中門があります。
中門の左右には金剛力士像が安置されています。
向かって右が阿形像、左が吽形像です。


金剛力士像

阿形像(奈良時代、重文)、吽形像(奈良時代、重文)
ともに塑像だったが、吽形像は江戸時代の修理で下半身は木造に造りかえられた。


中門の西側(向かって左)から中に入ります。
拝観料は、西院伽藍、大法蔵院、東院伽藍セットで1000円です。

西院伽藍

 金堂(飛鳥時代、国宝)

・中の間
本尊、釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)安置。
中尊の釈迦如来坐像の光背には三尊像造立の由来が刻まれている。

それによると、622(推古30)年の正月、太子の母、穴穂部間人(はしひと)皇后が亡くなった後、太子と后の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)が相次いで病に倒れた。
そこで王后、王子、諸臣たちが太子の転病延寿を願って、太子等身の釈迦像の造立を発願し、止利仏師に造像を依頼した。
しかし、その年の2月太子と后は、日を接して亡くなってしまった。
結局、三尊像が完成したのは翌623年3月のことだったという。

脇侍は向かって右が薬王菩薩、左が薬上菩薩。
また三尊像の向かって右には毘沙門天立像(平安時代、国宝)、左に吉祥天立像(平安時代、国宝)が安置されている。
これら2体は、1078年に吉祥悔過法要の本尊として造立された。

*毘沙門天とは、四天王の1つの多聞天のこと。
  単独で信仰される場合は、毘沙門天と呼ばれる。

・東の間

薬師如来坐像(飛鳥時代、国宝)
光背に、用明天皇の遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が法隆寺を建立したとの、法隆寺誕生のいきさつが刻まれている。

・西の間

阿弥陀如来座像(鎌倉時代、重文)
脇侍のうち1体は中尊と同時期に造られたが、もう1体は元々法隆寺に保存されていた白鳳期の像を転用したという。

四天王立像(飛鳥時代、国宝)
わが国最古の四天王像。
須弥壇の四方に安置される。


金堂の外陣、内陣の壁には、壁画が描かれているが、元々の壁画は1949(昭和24)年の火災で焼けただれてしまった。
現在のものは、復元模写。
焼けた柱や壁は、鎮火後の状態のまま収蔵庫に保存されているという。


 五重塔(飛鳥時代、国宝)

わが国最古の五重塔。高さ34.1m。
初重の四方には、各面に山岳(須弥山)を背景とした塑像の群像が配されている。


 東面=維摩詰像土
在家の維摩詰が文殊菩薩と問答する。

 北面=涅槃像土
釈迦入滅の際、中央に横たわる釈迦の脈を耆婆大臣(ぎばだいじん)がとり、その周りで弟子たちが悲しむ姿が描かれる。

 西面=分舎利像土
釈迦の骨(舎利)を分かつ場面

 南面=弥勒仏像土
釈迦入滅後56億7千万年後に現れる弥勒菩薩が説教をしている。


法隆寺 五重塔と金堂.

  五重塔と金堂


 大講堂(平安時代、国宝)

金堂と五重塔の後方(北側)にある。
薬師三尊像(平安時代、国宝)を安置。
脇侍は、日光、月光菩薩像。
大講堂前では、10年に1度、聖徳太子の命日の2月22日に年忌法要、聖礼会(しょうりょうえ)=大会式(おおえしき)が行われる。



 西円堂(鎌倉時代、国宝)

西院伽藍の北西に建つ八角円堂。
橘夫人(藤原不比等の妻で光明皇后の母の県犬養橘三千代)の発願で行基が堂を建て、本尊をつくったという。
本尊、薬師如来坐像(奈良時代、国宝)は、脱活乾漆造。
「峰の薬師」の愛称で親しまれている。
毎年2月には、修二会と鬼追式が行われる。



 上御堂(かみのみどう)

大講堂の背後(北)に建つ。釈迦三尊像(平安時代、国宝)を安置。
脇侍は、文殊菩薩と普賢菩薩。
三尊すべて上下二重の円光光背を持つ。
また三尊すべて桜材の一木造。
上御堂は非公開で、毎年11月1日〜3日のみ特別公開される。



 聖霊院(しょうりょういん)(鎌倉時代、国宝)

元々は僧侶が住む僧坊であった東室の南側六間を鎌倉時代に改築したもの。3つある厨子のうち、中央厨子には、聖徳太子が45歳の時、勝鬘経を講讃した時の姿を刻んだという聖徳太子坐像(平安時代、国宝)が安置される。
向かって右の厨子には、恵慈法師、地蔵菩薩、卒未呂王(そまろおう)の像が、左の厨子には、殖栗王(えぐりおう)如意輪観音、山背大兄王の像がそれぞれ安置されているがすべて非公開。
毎年3月22日〜24日の3日間、「聖霊会」通称「お会式(おえしき)=小会式」が行われる。


法隆寺 聖霊院

聖 霊 院


以上で、今回の報告を終了します。
ラベル:聖徳太子 斑鳩
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2009年08月18日

聖徳太子生誕の地 橘寺

こんにちは、チヨです。

今回からは、聖徳太子ゆかりの地を巡って行きたいと思います。


 歴史年表

593年  聖徳太子、推古天皇の摂政になる



 聖徳太子  574  〜  622

父、用明天皇。母、穴穂部皇女。
穴穂部皇女が、馬屋の前で突然産気づき、その戸にぶつかって産まれたことから「厩戸皇子」と名付けられたという。
ちなみに「聖徳太子」という名前は「仏に備わった優れた徳を持ち、仏教に深く通じた人」という意味で死後に贈られたものだという。
7歳の時に百済から献上された経論数百巻を読破し、成人してからは、10人の訴えを同時に聞き分けて、それぞれに正しい答えを示したと言われる。
593年に、推古天皇の皇太子、摂政となり、603年「冠位十二階」、604年「十七条憲法」をそれぞれ制定した。
対外的には、600年に第1回遣隋使を派遣し、5世紀以来途絶えていた中国との交渉を再開した。
また熱心な仏教信者で、法隆寺を建立したことでもよく知られる。
何かと聖人伝説の多い聖徳太子だが、あまりにも現実離れした話が多いので、信憑性が低いと指摘する研究者も多く、そもそも聖徳太子は架空の人物で実在しなかったとする説もある。



 橘寺(たちばなでら)

聖徳太子生誕の地と言われる。

元は、欽明天皇の橘の宮という別宮だったが、606(推古14)年、天皇の命により聖徳太子が寺に改めたと伝えられる。

当初は、東西八丁(870m)、南北六丁(650m)の寺地に金堂、講堂、五重塔など66棟の堂舎が建ち並んでいたが、その後次第に衰退したという。


 アクセス 奈良交通明日香周遊バス、岡橋本下車、徒歩約5分

    拝観料  350円






 本堂(太子殿)

聖徳太子勝鬘経講讃像(国重文)
聖徳太子孝養像
田道間守像
等が、安置されている。
本堂前には、太子の愛馬黒駒の像が立つ。


橘寺本堂(太子殿).

 橘寺本堂(太子殿)と太子の愛馬黒駒像


 


 二面石

飛鳥時代の石造物。
人の心の善の部分と悪の部分を表しているという。


二面石

 二 面 石





 蓮華塚

聖徳太子が、勝鬘経を講讃した時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もったという。
その蓮の花を埋めたのが、この場所と言われており、大化の改新でこれを一畝(いちせ)[36坪=約100u]と定め面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれているという。


蓮華塚

 蓮 華 塚





 寺名の由来

「日本書紀」によると、第11代垂仁天皇の勅命を受けて、田道間守(たじまのもり)という男が常世国(とこよのくに)に不老不死の薬、非時香菓(ときじくかくのこのみ)を求めて使いに出された。
しかし、10年の苦難の末に木の実を持ち帰ったところ、天皇はすでに亡くなっていたという。
この時、彼が持ち帰った木の実を現在の橘寺のあたりに蒔いたところ、橘の芽が出たので、この地を橘、寺名を橘寺と呼ぶようになったと伝えられている。



ちなみに、田道間守は、垂仁天皇陵のすぐそばに葬られたという。



垂仁天皇陵

 垂仁天皇陵 前に浮かぶ小島は田道間守の墓
    (奈良市尼ヶ辻西町)




本堂(太子殿)では聖徳太子に関する資料が販売されています。


以上で、今回の報告は終了します。

  








以上、今回の報告は終了です。
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2009年08月10日

蘇我馬子栄華の跡

こんにちは、チヨです。

今回も前回に続いて、蘇我馬子のゆかりの地を巡ってみたいと思います。

最初に、前回8月5日分ブログの補足説明です。

前回ブログに書きました系図に登場した欽明天皇の后の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)の2人はともに蘇我稲目の娘であり、馬子とは兄弟関係にあります。
つまり、馬子が物部守屋を討った時に協力した厩戸皇子(聖徳太子)、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子の3人は全員蘇我氏の血縁の人間ということです。


 歴史年表

592(崇峻5)年 馬子、崇峻天皇を暗殺させる


 崇峻天皇暗殺事件

物部氏を滅亡させ朝廷内での実権を握った馬子は、高句麗の南下政策によって失われた朝鮮半島での権益を回復するために派兵し、また仏教布教のために飛鳥寺を建立するなど、次第に権力を拡大していった。

そんな中、「お飾り」に過ぎない存在となっていった崇峻天皇は、馬子に不満を抱くようになっていった。


元々、馬子が用明天皇の後継者として泊瀬部皇子(崇峻天皇)を推したのは、蘇我氏と血縁関係にない押坂彦人大兄皇子の即位を阻止したっかたからにすぎず、当時実質的に政治の中枢にあったのは、馬子と姪の炊屋姫の2人であり、崇峻天皇は2人の傀儡に過ぎなかったのである。

「日本書紀」によると、ある日天皇は献上された猪を前にして刀を抜き、「いつの日かこの猪の首を斬るように憎いあの男を斬りたいものだ」と周囲に不満をもらしたという。

この件を耳にし自らの身に危険を感じた馬子は、部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて、崇峻天皇を暗殺させてしまった。

その後、直駒は崇峻天皇の后となっていた馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ)を略奪するが、このことを知った馬子に直駒は殺されてしまう。
しかし、馬子が直駒を殺した本当の理由は口封じのためだったのではないかと考えられている。


この時、後継候補の厩戸皇子と竹田皇子はともに即位するには若すぎたため、押坂彦人大兄皇子の即位をどうしても避けたい馬子は、中継ぎとして炊屋姫に白羽の矢を立てた。
こうして、炊屋姫は推古天皇として即位し、初の女帝が誕生した。

推古天皇は即位後すぐ、聖徳太子を皇太子とし摂政に任命して、大臣の馬子と三頭体制で政治を行うことになった。


 馬子の栄華

こうして政治の実権を握った馬子は、蘇我氏繁栄の基盤を築いていく。

一般的に「冠位十二階」と「憲法十七条」は聖徳太子が制定したと考えられているが、「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」には、太子と馬子の2人で制定したと記されているという。

またこの当時、馬子に冠位は与えられていないが、それは馬子が冠位を与える側の人間だったからである。

さらに馬子は冠位のかわりに天皇から大臣の証として紫の冠を与えられるなど、諸豪族の中でも特別な存在としてその頂点に君臨していたと考えられている。


 馬子の晩年

馬子は晩年、息子の蝦夷を宮廷の重臣である大夫(まえつきみ)の列に加え、新羅からの使者を迎える行事に出席させるなど後継者育成にも力を尽くしたと言われている。




 歴史年表

626(推古34)年 蘇我馬子、亡くなる


馬子は、626年に80歳ぐらいで亡くなったという。

「日本書紀」によるとその遺体は桃原墓に葬られたとあり、現在の明日香村にある石舞台古墳が馬子の墓ではないかと言われている。


 石舞台古墳

一辺約50mの方墳。
日本最大級の横穴式石室で巨大な花崗岩を30個ほど組み上げて造られている。
玄室の奥行きは7.5m、幅3.5m、高さ4.7m。
ここが馬子の墓ではないかとされるのは、7世紀初め〜前半の造営で、馬子の亡くなった時期と一致すること、
また、7つの小古墳を破壊した上に造営されたことが判明しており、そのような行為が可能なのは被葬者が相当の権力者であったと考えられるからである。
石舞台という名の由来は、早くに墳丘の盛土が流出してしまい石室が露出したためと言われるが、
女の姿に化けたキツネが月夜の晩に石の上で踊ったからとも、
旅芸人がこの上で舞を披露したからとも言われている。



 アクセス   かめバス(赤かめ)で石舞台下車、徒歩約3分

           見学料  250円





石舞台古墳 

  石舞台古墳




 歴史年表

718(養老2)年 飛鳥寺、平城京に移る

 元興寺

蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)が718年に平城京内に移転した寺。
当時は南都七大寺の一つとして栄えたが、平安時代の後期から衰退し、現在は中院町の元興寺極楽坊と芝新屋町の塔跡が残るだけとなった。
1998(平成10)年古都奈良の文化財(東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、唐招提寺、薬師寺、平城宮跡、元興寺)の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録された。


 元興寺極楽坊

奈良時代の終わりに出た、学僧の智光が夢の中で極楽浄土を感得し、曼荼羅を画工に描かせた。
平安時代末期になって浄土教が盛んになると、智光が住んでいた僧坊の一室を念仏道場に改築しこの曼荼羅が祀られたので、曼荼羅堂、または極楽坊と呼ばれるようになったという。
本堂(国宝)とその後ろに建つ禅室(国宝)の屋根には、飛鳥から現在地へ移転の際に運び移されたという日本最初の瓦が使われており、丸瓦を重ねる行基葺きという独特の葺き方をしている。

本堂南にある収蔵庫には高さ約5.5mの五重小塔が置かれている。
これはかつて西小塔の本尊として祀られた塔だったと伝えられている。
その他、聖徳太子立像、弘法太子坐像等が安置される。

 アクセス    近鉄奈良駅から徒歩約15分

     拝観料  400円





元興寺本堂

  元興寺本堂


 元興寺塔跡

元興寺極楽坊とは元々は同じ寺だったが、室町時代に分裂し、現在は東大寺の末寺となっている。
室町期に徳政一揆で金堂などが焼かれ衰退、さらに、1859年に五重塔も焼失し塔跡には、基壇と17個の礎石が残っている。
心礎からは古銭やヒスイの勾玉などが出土し、塔跡土壇出土品(国重文)と呼ばれ、木造薬師如来立像(国宝)とともに奈良国立博物館に寄託されている。

  アクセス  近鉄奈良駅から徒歩約20分

         拝観自由    
 





以上、本日の報告は終了です。
posted by チヨ at 10:44| 奈良 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

蘇我馬子ゆかりの地

こんにちは、チヨです。

前回から少し間があいてしまいましたが、その間明日香村へ取材に出かけておりました。

ということで、今回と次回は蘇我馬子ゆかりの地を巡って見ようと思います。


 歴史年表

538年 百済の聖明王が仏像と経典を献じる
                 (仏教伝来)




仏教伝来は
「元興寺伽藍縁起」と
「上宮聖徳法王帝説」では、538年
「日本書紀」では、552年と伝えられている。



 崇仏派 蘇我氏 VS 廃仏派 物部氏

欽明天皇は、仏教を容認すべきか否か決めかねていた。
そこである日、天皇はまわりの群臣たちに仏教信仰の是非について尋ねてみた。

蘇我稲目は「西の諸国はみな仏像を礼拝している。我が国だけが、礼拝しないわけにはいかない。」と答えた。

これに対して、物部尾輿は「我が国は古代より八十神(やそのかみ)を祀ってきた。蕃神(外来の神)を信仰すると、国神(くにつのかみ)の怒りを招く」と言って反対した。

そこで天皇は、稲目にだけ仏像を授けることにした。
稲目は自宅を寺に改め、この仏像を祀った。

ところがその後、疫病が流行し、死者が続出した。

この事実に尾輿らは、「国神の怒りに触れた」と言って寺を焼き払い、仏像を難波の堀江(運河)に捨ててしまった。



 蘇我氏   

大和政権で財務、外交を担当していたと見られる、古代豪族。
稲目の時、大臣(おおおみ)になったと言われる。


 物部氏

大和政権の軍事担当の伴造(とものみやつこ)として仕えていた氏族。5世紀初め、大伴氏とともに、大連(おおむらじ)として権利を得たと言われる。


 向原寺(むくはらでら)

蘇我稲目が自宅を寺に改め仏像を祀った寺。
ここは後に推古天皇の豊浦宮(とゆらのみや)となり、その跡に稲目の息子の馬子が豊浦寺を創建したと伝えられる。
豊浦寺は、日本最初の尼寺と言われ、建興寺、小墾田豊浦寺、豊浦尼寺とも呼ばれた。
9世紀にはすでに堂宇が崩れ、中世には衰亡したと言われており、現在の向原寺は、その講堂跡にあるという。
本堂の南に豊浦寺の礎石、その下に豊浦宮の遺構があるが、拝観するには、事前連絡が必要。


 アクセス  近鉄橿原神宮前駅東口から
        奈良交通周遊バス、かめバス(赤かめ)で
        豊浦下車、徒歩3分


         


向原寺 


   向 原 寺


 歴史年表

585年 蘇我馬子が建てた仏殿を物部守屋が焼き払う



 崇仏か廃仏か? 争いは子の代へ!

584(敏達13)年、鹿深臣(かふかみのおみ)、佐伯連(さえきのむらじ)が百済から弥勒仏を持ち帰った。
馬子はこれを譲り受け、自宅の東方に仏殿を構え祀ったところ、再び疫病が流行した。

これを見た物部守屋は「仏教崇拝のせいだ」と言って非難し、寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に捨ててしまった。
また信仰者たちを捕らえて、鞭打ちの刑に処した。

こうした中、敏達天皇が疫病で崩御する。

両者の争いは皇位継承問題へと発展していく。



 歴史年表

587年 馬子、守屋を討つ


敏達天皇の死後、用明天皇が即位するが、間もなく病に倒れ亡くなってしまう。

守屋は、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を後継者として擁立しようとした。

これに対して、馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推し、両者の間で新たな対立が生じた。

しかし、穴穂部皇子は敏達天皇崩御後、自らが天皇となりたいがために敏達天皇の后の炊屋姫(かしきやひめ=後の推古天皇)を意のままに操ろうと、彼女を犯そうとし、朝廷内でも信用を失っていた。

さらに、用明天皇が私的に仏教に理解を示し、「仏法を厚く敬うように」と遺言するなど、馬子は優勢な立場にあった。

そこで馬子は、炊屋姫の詔を受けて穴穂部皇子を殺害、その後泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子らの協力を得て、物部守屋の本拠地河内を攻め入った。
守屋は激しく抵抗したが、結局、迹見赤檮(とみのいちい)という人物に矢で射抜かれて亡くなったという。
こうして物部氏は滅亡し、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位した。



  系図 1


堅塩姫(きたしひめ)
 |
 |   |ーーー炊屋姫
 |ーーー     
 |   |ーーー用明天皇
 |         |
欽明天皇        ーーー厩戸皇子(聖徳太子)
 |         |
 |   |ーーー穴穂部皇女
 |ーーー
 |   |ーーー穴穂部皇子
 |   |
 |   |ーーー泊瀬部皇子(崇峻天皇)
 |
小姉君(おあねぎみ)



  系図 2


         広姫
          |
 石姫        ーーー押坂彦人大兄皇子
  |       |
  |ーーーーー敏達天皇
  |       |
欽明天皇       ーーー竹田皇子
  |       |
  |       |
  |ーーーーーー炊屋姫
  |
  |
堅塩姫




 歴史年表

588年 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)創建を発願               (完成は、596年)


飛鳥寺

蘇我馬子が588年に発願し、596年に完成した法興寺で日本初の本格的寺院。    
飛鳥時代には、現在の20倍以上の寺域があったという。
寺名は、飛鳥寺ともまた現在では安居院(あんごいん)とも言う。
平城京遷都にともない、718年に平城京内に移され元興寺となると、こちらは本元興寺(もとがんごうじ)とも呼ばれるようになった。
1956(昭和31)年からの発掘調査で、塔の北、東、西の三方に金堂が配される伽藍配置であったことが確認された。

本尊は609年に鞍作止利が制作したという銅造釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏(国重文)。
本来は、釈迦三尊像だったが、脇侍は火災で焼失した。
また、本尊も現存するのは顔面と右手中央3指だけで、それ以外は後補によるものという。
表情は、向かって右から見ると、やや険しい表情、左から見ると、穏やかで優しい表情をしているという。
やや顔が右に傾いているが(3度ほど傾いているらしい)これは、聖徳太子生誕の地、橘寺の方を向いているからで、聖徳太子を見守っていらっしゃるのだという。


 アクセス  かめバスで飛鳥大仏下車すぐ


 拝観料  境内自由
      本堂拝観 350円

本堂に入ると飛鳥大仏について、詳しく説明して下さる。






飛鳥大仏.

   飛 鳥 大 仏


 鞍作止利(くらつくりのとり) ? 〜 ?

渡来人司馬達等の子孫。
法隆寺金堂の釈迦三尊像や飛鳥寺の本尊、飛鳥大仏を制作したことで知られる。
彼の作品およびその影響を受けたと思われる作品は、「止利様式」と呼ばれ、細面な顔、杏仁形(きょうにんけい)の目=大きく見開いた切れ長の目、そして、アルカイック・スマイル(古式の笑み)が特徴。



 司馬達等(しばたっと) ? 〜 ?

朝鮮半島を経由してやって来た渡来人。
中国南北朝時代の国の一つ梁(りょう)の出身で、のちの鞍作氏の祖とされる。
熱心な仏教信者で、仏教伝来後、蘇我馬子が自宅に仏殿を建てたとき、仏舎利を献上したとも言われ、仏教受容に大きな役割を果たしたとされる。

*仏舎利(ぶっしゃり)
   仏陀の遺骨のこと


多くの寺院では、仏像の写真撮影はNGですが、飛鳥大仏は撮影OKでした。

明日香村をかめバス(赤かめ)で周るなら、1日周遊券を買うとお得です。650円で1日乗り放題です。
橿原神宮前駅の改札口で購入できます。
またこちらは乗っていないのでわかりませんが、金かめという循環バスも走っているそうです。

以上、今回の報告は終了します。
ラベル:明日香村
posted by チヨ at 20:23| 奈良 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする