今回も聖徳太子のゆかりの地を巡ってみようと思います。
今回は、法隆寺です。
法隆寺は、見所が多いので2回に分けて書かせていただきます。
法隆寺
用明天皇(聖徳太子の父)が疫病(天然痘)にかかり、自らの病気平癒を祈願するために、薬師像を祀る寺の建立を発願した。
しかし、それを果たすことなく間もなく天皇は崩御されたので、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成させたのが法隆寺である。
法隆寺は「日本書紀」に670(天智9)年落雷で焼失したを記されている。
この事実の是非をめぐって1880(明治20)年頃から「法隆寺再建非再建論争」が起こったが、1939(昭和14)年に、現在の西院伽藍の東南にある若草伽藍跡地の発掘調査が行われ、塔と金堂が建てに直列する四天王寺式伽藍跡が確認され、焼失した法隆寺の遺構であることが明らかになった。
現在の法隆寺は金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と八角円堂の夢殿を中心とする東院伽藍に分かれる。
1993(平成5)年法起寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本初の世界文化遺産に登録された。
アクセス 近鉄奈良駅から奈良交通バス
法隆寺前行きで1時間
法隆寺前下車、徒歩約5分
最初に南大門を通り抜け、少し行くと中門があります。
中門の左右には金剛力士像が安置されています。
向かって右が阿形像、左が吽形像です。
金剛力士像
阿形像(奈良時代、重文)、吽形像(奈良時代、重文)
ともに塑像だったが、吽形像は江戸時代の修理で下半身は木造に造りかえられた。
中門の西側(向かって左)から中に入ります。
拝観料は、西院伽藍、大法蔵院、東院伽藍セットで1000円です。
西院伽藍
金堂(飛鳥時代、国宝)
・中の間
本尊、釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)安置。
中尊の釈迦如来坐像の光背には三尊像造立の由来が刻まれている。
それによると、622(推古30)年の正月、太子の母、穴穂部間人(はしひと)皇后が亡くなった後、太子と后の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)が相次いで病に倒れた。
そこで王后、王子、諸臣たちが太子の転病延寿を願って、太子等身の釈迦像の造立を発願し、止利仏師に造像を依頼した。
しかし、その年の2月太子と后は、日を接して亡くなってしまった。
結局、三尊像が完成したのは翌623年3月のことだったという。
脇侍は向かって右が薬王菩薩、左が薬上菩薩。
また三尊像の向かって右には毘沙門天立像(平安時代、国宝)、左に吉祥天立像(平安時代、国宝)が安置されている。
これら2体は、1078年に吉祥悔過法要の本尊として造立された。
*毘沙門天とは、四天王の1つの多聞天のこと。
単独で信仰される場合は、毘沙門天と呼ばれる。
・東の間
薬師如来坐像(飛鳥時代、国宝)
光背に、用明天皇の遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が法隆寺を建立したとの、法隆寺誕生のいきさつが刻まれている。
・西の間
阿弥陀如来座像(鎌倉時代、重文)
脇侍のうち1体は中尊と同時期に造られたが、もう1体は元々法隆寺に保存されていた白鳳期の像を転用したという。
四天王立像(飛鳥時代、国宝)
わが国最古の四天王像。
須弥壇の四方に安置される。
金堂の外陣、内陣の壁には、壁画が描かれているが、元々の壁画は1949(昭和24)年の火災で焼けただれてしまった。
現在のものは、復元模写。
焼けた柱や壁は、鎮火後の状態のまま収蔵庫に保存されているという。
五重塔(飛鳥時代、国宝)
わが国最古の五重塔。高さ34.1m。
初重の四方には、各面に山岳(須弥山)を背景とした塑像の群像が配されている。
東面=維摩詰像土
在家の維摩詰が文殊菩薩と問答する。
北面=涅槃像土
釈迦入滅の際、中央に横たわる釈迦の脈を耆婆大臣(ぎばだいじん)がとり、その周りで弟子たちが悲しむ姿が描かれる。
西面=分舎利像土
釈迦の骨(舎利)を分かつ場面
南面=弥勒仏像土
釈迦入滅後56億7千万年後に現れる弥勒菩薩が説教をしている。
五重塔と金堂
大講堂(平安時代、国宝)
金堂と五重塔の後方(北側)にある。
薬師三尊像(平安時代、国宝)を安置。
脇侍は、日光、月光菩薩像。
大講堂前では、10年に1度、聖徳太子の命日の2月22日に年忌法要、聖礼会(しょうりょうえ)=大会式(おおえしき)が行われる。
西円堂(鎌倉時代、国宝)
西院伽藍の北西に建つ八角円堂。
橘夫人(藤原不比等の妻で光明皇后の母の県犬養橘三千代)の発願で行基が堂を建て、本尊をつくったという。
本尊、薬師如来坐像(奈良時代、国宝)は、脱活乾漆造。
「峰の薬師」の愛称で親しまれている。
毎年2月には、修二会と鬼追式が行われる。
上御堂(かみのみどう)
大講堂の背後(北)に建つ。釈迦三尊像(平安時代、国宝)を安置。
脇侍は、文殊菩薩と普賢菩薩。
三尊すべて上下二重の円光光背を持つ。
また三尊すべて桜材の一木造。
上御堂は非公開で、毎年11月1日〜3日のみ特別公開される。
聖霊院(しょうりょういん)(鎌倉時代、国宝)
元々は僧侶が住む僧坊であった東室の南側六間を鎌倉時代に改築したもの。3つある厨子のうち、中央厨子には、聖徳太子が45歳の時、勝鬘経を講讃した時の姿を刻んだという聖徳太子坐像(平安時代、国宝)が安置される。
向かって右の厨子には、恵慈法師、地蔵菩薩、卒未呂王(そまろおう)の像が、左の厨子には、殖栗王(えぐりおう)如意輪観音、山背大兄王の像がそれぞれ安置されているがすべて非公開。
毎年3月22日〜24日の3日間、「聖霊会」通称「お会式(おえしき)=小会式」が行われる。
聖 霊 院
以上で、今回の報告を終了します。